シロの考察所

シロが勝手に考察します

シロの曲考察-売奴(巫泥)

巫泥さんを推すシロです。今回は売奴の考察をしていきます。巫泥さんの曲は仏教が非常に関連するのですが、売奴でも主張が激しいです。まぁ、私は仏教をよく知らないので調べながらなのですが………

 

歌詞を一部ずつ順に見ていきます。

 

"白黒つけたがった世 再開出来っこない娘

物価が高騰してよ 噂では少女が売られてんぞ"

白黒つけ「たがった」なのでまず、善悪がはっきりしていないことがわかります。犯罪が罷り通っていたのですかね。「物価が〜売られてんぞ」から再開出来っこない娘は売られたと想像されます。物価が上がって生活が苦しい社会です。

そんな苦しい生活をしていれば、宗教に頼りたくとなります。

 

"整形した観音像 肥大した菩薩洗脳

期待した弥勒 文珠 見て見ぬふりした不動明王"

仏教は宗教の一つですが、仏教の話が始まったので人々が信仰し始めたのは仏教でしょう。

ここは自分でもかなり読みにくかったので自分なりに解説します。

・まず、整形した観音像について。

観音とは、正確には観世音菩薩、人々の音声を観じて苦悩から救済する菩薩のことです。その像(姿形)を整形=人々によりよく見せた ということです。

・肥大した菩薩洗脳について。

先ほどの"整形"により"苦悩から救済する"ということに間違いなく期待をします。菩薩とは、衆生(人々)を救うために多くの修行を重ねる人です。生活が苦しい状況、人々を救うという観音の姿を肥大して捉え、考え方を根本的に観音に洗脳されてもおかしくありません。

・期待した弥勒 文珠 見て見ぬふりした不動明王について。

洗脳された菩薩は当然観音のように人々を救済したいと"期待"します。不動明王は諸願を満足させるのですが、見て見ぬふり、つまり、諸願のうちの二人の期待を無視したのです。

仏教は期待した・助けを求めた人々を救わなかったということです。

 

"賽銭箱に 阿修羅の少女 閉じ込められて

いるとも知らずに 絢爛観光 上出来さ

金銭が溜まって 窒息沈殿"

賽銭は参詣の際に納める金銭のことですが、それを入れる箱中に阿修羅(=仏法を守護する天竜八部衆の一人)を閉じ込め(=仏教の機能を阻害)しています。

それを知らずに、絢爛(きらびやかで美しいこと)な神社に観光をしにくる(苦しい生活をしているため、きらびやかなところに行きたくもなるでしょう)=賽銭が増えるので、上出来だと言っているのです。

"金銭が溜まって窒息沈殿"したのは阿修羅の少女でしょう。沈殿とはおそらく金銭に埋まって見えなくなること=神隠しだと思います。阿修羅が閉じ込められていることも知られないのです。

 

"調教した売国奴 錯乱した体温度

八百長紛い守銭奴 噂では少女が埋まってんぞ"

先ほどの考察、金が欲しい人が企んでいる前提でしたが、なぜかはここにあります。

・調教した売国奴→国を売るように仕込んだ人間を用意した→用意するだけなわけがないので当然自国に使用したのでしょう

・錯乱した体温度→これは病気が蔓延したということだと思います。それ以外に体温が錯乱する原因が思いつきませんし、病気だとすれば仏教の信仰者を増やすための企みの一つだと考えられます。

八百長紛い守銭奴→ここが重要だと思います。最初から勝敗(今回は勝ちでしょう)を決めた勝負をしている守銭奴(=金を溜め込むことに執着する人)なのです。つまり、この人は無限に金銭を求めている、まさに金銭が溜まるように仏教を利用した人なのでしょう。ここから、金が欲しい人が企んでいることがわかるのです。

・噂では少女が埋まってんぞ→これは先ほど窒息した少女でしょう。"神隠し"の一環として地面に埋めたと言えば説明がつきます。

 

"賽銭箱に〜窒息沈殿"

先ほどと同じです。ただし、この阿修羅は二人目と見るべきでしょう。

 

"囚われている 過去にまで 足を捕られる だけ

塵も積もるさ"

・囚われている 過去→過去は仏語でこの世に生まれる前の世の意味。つまり、価値観に囚われた過去の世のこと。"まで"から否定的なのがわかります。

・足を捕られる→足を取られる=足を捕られると考えます。

価値観に囚われたような過去の世に足を取られるほど金銭は溜まる、つまり、過去からある仏教にすがる人々を馬鹿にしてるんじゃないでしょうか。

 

"絢爛観光〜窒息沈殿"

さらに人々を馬鹿にしてますね。

 

"通りゃんせ 通りゃんせ 頭の先から れいざ〜びいむ 通りゃんせ 通りゃんせ おてての中から

だいだらぼっち 通りゃんせ 通りゃんせ

頭の先から れいざ〜びいむ 通りゃんせ

通りゃんせ 後ろの少年 だあれ?"

ここはもうオマケだと思って読みたくないくらいに難易度高いと思います。

・聞き覚えのない言葉「通りゃんせ」→これは実際にそういう題名の歌があります。

7歳になった子供とその連れが細道を行っているのですが…そもそもこの人たちは何の細道を行っているのかをわかっておらず、門番の人に聞くことで天神様の細道であることを知ります。それなのに、7歳のお祝いにお札を納めにいくので通してください、といい通してもらうのですが、その時門番に「行きは良いですが、帰りは危ないですよ。」と注意されるのです。

この頃、子供は7歳(大人)になるまで身売りや生贄などで、神隠しに合うこともしょっちゅうでした。

(身売りなんてまさに売奴と共通してるんですよね。)

知らない細道だったはずなのにお札を渡すなんて不自然です。聞かれた門番もそう思ったはず。そこで門番は天神様に子供を生贄にしに行くつもりだろうと薄々感づいてこそ、「帰りは危ない」と止めるよう促したんだと思います。それでも行ったのですが。つまり、この子供は7歳に満ちていない可能性が高いです。

これのなにが関係するのかというと、売奴の一番最後、"後ろの少年 だあれ?"です。この子供が阿修羅の少女だとし、連れを守銭奴だとすると、どうでしょう。後ろの少年は天神様だと思いませんか?すでに窒息沈殿が3度起きている=3人阿修羅の少女を殺しているので次のお金稼ぎのための場所を探していて、天神様の居処を使用しようとしたのだとすれば、この仮説は通ります。

 

頭の先かられいざ〜びいむ出したりおてての中からだいだらぼっち出てきたりしてるのはさすがによくわからないんですが、多分これは遊びだと思いますよ。「通りゃんせ」が通りゃんせの歌を暗示していると読んでいますが、このとき通りゃんせは強調するために何度も言われていると思えますが、だいだらぼっちがすでに仏教と関係ないので、これはなにか遊んでいる状況を写していて、それを通りゃんせ通りゃんせ でおてての中から…と言おうとしたら後ろに少年がいることに気づいたのではないかと思います。

 

感想

わたしは れいざ〜びいむ の語感が大好きです。何ですかこの文字列可愛すぎる。自分が今回歌を読もうとした理由の9割がこの文字列ですからね。

さて、最後の部分ですが、自分が守銭奴と合わせて読むのではなくて他の人と合わせて読めば後ろの少年は子供が7歳になるまで守ってくれている少年、と読めるのですが、私は守銭奴を許せない神様にしか思えなかったのでそう読みました。

調べてみればわかるんですけど、通りゃんせの考察は意外に数多く存在しましたよ。この曲は巫泥さんの曲×仏教×童謡なので読む人によって意味の解釈が多岐に分かれそうだと思います。

 

以上です。