シロの考察所

シロが勝手に考察します

シロの曲考察-低血ボルト(ずっと真夜中でいいのに。)

シロです。

 

"弱気になる最寄りの雨

日々飛び散る血を滲ませてく

権利を武器に変えて争うほど

心を失うこと受け入れる"

→雨は飛び散る血のことでしょう。他に液体がありません。滲んでいるので、無駄になっています。"最寄りの"から身近さを感じるので、味方がいたのでしょう。その雨は弱気になっているので、その味方は疲弊しています。権利は意見を通す権利だと考えると、争いは論争だと思います。心を失う、これは批判を受けて精神状態が不安定になることでしょう。

そんな状態も受け入れています。

 

"覚悟なら 自然に 誰かの為に引き換えに手放せば

今自分が 生きてゆく意味になれてゆくの"

→覚悟なら自然に持っているのは先ほどの文からわかります。それを批判する誰かの為に引き換えに手放せば確かに、批判している側の味方に回るので、自身が誰かの為に生きていることになるでしょう。ただし、これは争いに負けることを意味します。

ちなみにですが、この歌で一人称が自分になるのはここだけ、他は全て一人称が僕です。ここは挫折しかけている、そんなシーンですが、一人称が僕になる時は挫折しかけていない、批判に立ち向かっている、そんなシーンです。

 

"怖がることはもういーかい 惑わされてくなら

頭でっ価値 ずっとうんと砕いてもっと

乱してあげて 脳みそ達止められない

操れない僕に 期待したいんだ 切り刻まれ

この皮膚に従うほど 無敵になれた"

→怖がることは間違いなく批判に対してでしょう。

もういーかい?から二人いるように思いますが、これは"一人称が自分"に"一人称が僕"が聞いています。間違いなく同一人物ですが、ここからは"一人称が僕"の歌になっていきます。

"惑わされてくなら"は批判に折れるか、折れずに立ち向かうかの2択で判断に苦しんでいることを言っているでしょう。

頭でっかちの意味は知識や理論が先走って行動が伴わないことです。これに含まれている形で存在する価値をうんと砕いて、もっと乱してあげるんですね。あげての て は並列の意味で読みました。

"脳みそ達止められない操れない僕に期待したい"から、"一人称が自分"は脳みそ達に止められる・操られるのだと読め、そちらではなく"一人称が僕"に期待したいのだとわかります。そして、肉体を外側から覆う皮膚、つまり内部の脳みそから一番遠いものにこそ僕に近いものを表現されていて、それに従う=身を任せるほど、無敵に感じられた、つまり批判を気にしなくなれたんですね。

砕くことは細かくすることですが、それに対して切り刻むことは細かく切ることなので、かなり似通ったイメージを感じます。砕くのはあたまでっ価値な相手の価値なのですが、切り刻まれるのはこちら側の、特に行動が伴っていない"一人称自分"の価値でしょう。

先ほどから価値を細かくすると表現していますが、細かくするというのは具体的にするということだと思います。これは意味をとったというよりは流れから読んだ、と言った感じですが。

 

"時が経てば 自然に 忘れゆく悲しみをいつまでも

思い返して 背負うことで戦えるの"

→時間が経てば自然に忘れてゆくような悲しみはまさに一番最初の部分、日々飛び散る血を滲ませていたあの頃でしょう。

それをいつまでも思い返す、つまり、あの無駄になりかけた滲んだ血を思い出す形で背負い、そして争いに戻るのです。一人だったら折れていたということ。

 

"たとえ否定しかしない誰かを

正義まで押し付ける客観を

見逃しは出来ないけど

響かないから 同調したって中身なくて

正しさが正しくなれないほど

簡単に僕らを表せないように お口直しを"

→否定しかしない誰かや正義まで押し付ける客観を見逃すことはできず、けれどもその人達に響かせるようなこともできない。たとえそうだからと同調しても、正しさが正しくなれないくらい、簡単に僕らを表せないように、同調に中身はない。だから気分を変えよう。

少し文の流れを変え、少し言葉を付け足したりしてみました。批判する人を見逃す気がない"一人称が僕"ですが、対処方法も見つかってないみたいです。ただ同調をしたとしても、そこに中身がないことだけははっきりとわかっています。同調の言葉が出てきた時点で一度同調視点、"一人称が自分"視点に切り替わりかけましたが、否定をしています。この同調視点に変わりかけたことこそが次のサビの怖がることですね。

 

"怖がることはもういーかい 惑わされてくなら

頭でっ価値 ずっとうんと砕いてもっと

乱してあげて 脳みそ達止められない

操れない僕に 期待したいんだ 切り刻まれ

この皮膚に従うほど 無敵になれた"

(特に書くことがないので省略します)

 

"こわいよ 何も感じない 苦しみを 探し求め

我に帰ってく ひたすら 噛み締めた 恨みは

くだらんか? ううん"

→"こわいよ〜我に帰ってく""ひたすら〜くだらんか?""ううん"で応答してるように感じられます。

なんとなく語調が変わっていますよね。

"一人称が自分"→"一人称が僕"→"一人称が自分"の順に見えます。

何も感じない苦しみを探し求めているので、今回怖いのは何も感じないことに苦しみを「覚えていない」ことでしょう。

我に帰るについては、我に返るが本心に帰ることですが、帰るが元いた場所に帰ることなので、"一人称が自分"が本心に戻ってくることによって"覚悟を手放そうとしている頃の自分"に帰ってきたんですね。

そして"一人称が僕"側が聞きます。ひたすら(僕が)噛み締めた恨み(思い返して背負った悲しみ)はくだらないか?と。

そして返事がううん。という否定。

 

"助かれ…"

これは自分がでしょう。さっきの返事の続きとして助かれ、と言ってるように思えます。

 

"怖がることを金輪際 迷いに負けるなら

頭でっか血 ずっとうんと砕いてもっと

乱してあげて 奇想天外止められない

操れない僕に 期待したいんだ 切り刻まれ

この皮膚に従うほど 無敵になれた"

怖がることの対象はないです。怖がることそのものに対して、金輪際(しない)と言っています。

迷いは批判に折れるか、立ち向かうか。

それに負ける=批判に折れるなら頭でっか血だ。と言っています。これは血を含んでいて、飛び散っていません。他の味方は飛び散ったのに?そういう折れる判断への皮肉を感じます。

ずっとうんと砕いてもっとは相手のことでしょう。これは相手の価値で変わらないかと。

そして"一人称が自分"も助かれ、などと賛成していたので、脳みそも信頼できるようになりました。なので、"僕"の表現方法が脳みそ達が止められないのではなく、"僕自身が奇想天外で他の誰にも止められないし操れない"に変わったのです。

そして最後は無敵でfin.

 

考察自体は以上です。

一通り読みましたが、葛藤の歌のように感じましたね。

こんな有名どころの歌を読んだのはじめてだ…

感想としては、かなり文が難しかったと思います。

読むのに一苦労。

読んだ理由は二つあって、一つはこの曲が好きだから。特に始まるところかなり好きです。

もう一つは、他の人の考察を見ながら自分の考察の仕方と他の人の仕方、また自分の考察の書き方と他の人の書き方を比べたかったからです。

歌の解釈は人それぞれですが、誤った解釈をしている場合でも、読み方自体は正しいな、と思った時、まさにそれは奇想天外の一言を作るときに使える知識でしょう。その読み方を利用して一つ何かを書いてみても良いのかも。と考えるとやはり、どんな誤った読み方でも、否定するわけにはいきませんよね。ていうかもっといろんな人に書いて欲しいと思います。比較するのが楽しいでしょうので。

それでは。

シロの曲考察-売奴(巫泥)

巫泥さんを推すシロです。今回は売奴の考察をしていきます。巫泥さんの曲は仏教が非常に関連するのですが、売奴でも主張が激しいです。まぁ、私は仏教をよく知らないので調べながらなのですが………

 

歌詞を一部ずつ順に見ていきます。

 

"白黒つけたがった世 再開出来っこない娘

物価が高騰してよ 噂では少女が売られてんぞ"

白黒つけ「たがった」なのでまず、善悪がはっきりしていないことがわかります。犯罪が罷り通っていたのですかね。「物価が〜売られてんぞ」から再開出来っこない娘は売られたと想像されます。物価が上がって生活が苦しい社会です。

そんな苦しい生活をしていれば、宗教に頼りたくとなります。

 

"整形した観音像 肥大した菩薩洗脳

期待した弥勒 文珠 見て見ぬふりした不動明王"

仏教は宗教の一つですが、仏教の話が始まったので人々が信仰し始めたのは仏教でしょう。

ここは自分でもかなり読みにくかったので自分なりに解説します。

・まず、整形した観音像について。

観音とは、正確には観世音菩薩、人々の音声を観じて苦悩から救済する菩薩のことです。その像(姿形)を整形=人々によりよく見せた ということです。

・肥大した菩薩洗脳について。

先ほどの"整形"により"苦悩から救済する"ということに間違いなく期待をします。菩薩とは、衆生(人々)を救うために多くの修行を重ねる人です。生活が苦しい状況、人々を救うという観音の姿を肥大して捉え、考え方を根本的に観音に洗脳されてもおかしくありません。

・期待した弥勒 文珠 見て見ぬふりした不動明王について。

洗脳された菩薩は当然観音のように人々を救済したいと"期待"します。不動明王は諸願を満足させるのですが、見て見ぬふり、つまり、諸願のうちの二人の期待を無視したのです。

仏教は期待した・助けを求めた人々を救わなかったということです。

 

"賽銭箱に 阿修羅の少女 閉じ込められて

いるとも知らずに 絢爛観光 上出来さ

金銭が溜まって 窒息沈殿"

賽銭は参詣の際に納める金銭のことですが、それを入れる箱中に阿修羅(=仏法を守護する天竜八部衆の一人)を閉じ込め(=仏教の機能を阻害)しています。

それを知らずに、絢爛(きらびやかで美しいこと)な神社に観光をしにくる(苦しい生活をしているため、きらびやかなところに行きたくもなるでしょう)=賽銭が増えるので、上出来だと言っているのです。

"金銭が溜まって窒息沈殿"したのは阿修羅の少女でしょう。沈殿とはおそらく金銭に埋まって見えなくなること=神隠しだと思います。阿修羅が閉じ込められていることも知られないのです。

 

"調教した売国奴 錯乱した体温度

八百長紛い守銭奴 噂では少女が埋まってんぞ"

先ほどの考察、金が欲しい人が企んでいる前提でしたが、なぜかはここにあります。

・調教した売国奴→国を売るように仕込んだ人間を用意した→用意するだけなわけがないので当然自国に使用したのでしょう

・錯乱した体温度→これは病気が蔓延したということだと思います。それ以外に体温が錯乱する原因が思いつきませんし、病気だとすれば仏教の信仰者を増やすための企みの一つだと考えられます。

八百長紛い守銭奴→ここが重要だと思います。最初から勝敗(今回は勝ちでしょう)を決めた勝負をしている守銭奴(=金を溜め込むことに執着する人)なのです。つまり、この人は無限に金銭を求めている、まさに金銭が溜まるように仏教を利用した人なのでしょう。ここから、金が欲しい人が企んでいることがわかるのです。

・噂では少女が埋まってんぞ→これは先ほど窒息した少女でしょう。"神隠し"の一環として地面に埋めたと言えば説明がつきます。

 

"賽銭箱に〜窒息沈殿"

先ほどと同じです。ただし、この阿修羅は二人目と見るべきでしょう。

 

"囚われている 過去にまで 足を捕られる だけ

塵も積もるさ"

・囚われている 過去→過去は仏語でこの世に生まれる前の世の意味。つまり、価値観に囚われた過去の世のこと。"まで"から否定的なのがわかります。

・足を捕られる→足を取られる=足を捕られると考えます。

価値観に囚われたような過去の世に足を取られるほど金銭は溜まる、つまり、過去からある仏教にすがる人々を馬鹿にしてるんじゃないでしょうか。

 

"絢爛観光〜窒息沈殿"

さらに人々を馬鹿にしてますね。

 

"通りゃんせ 通りゃんせ 頭の先から れいざ〜びいむ 通りゃんせ 通りゃんせ おてての中から

だいだらぼっち 通りゃんせ 通りゃんせ

頭の先から れいざ〜びいむ 通りゃんせ

通りゃんせ 後ろの少年 だあれ?"

ここはもうオマケだと思って読みたくないくらいに難易度高いと思います。

・聞き覚えのない言葉「通りゃんせ」→これは実際にそういう題名の歌があります。

7歳になった子供とその連れが細道を行っているのですが…そもそもこの人たちは何の細道を行っているのかをわかっておらず、門番の人に聞くことで天神様の細道であることを知ります。それなのに、7歳のお祝いにお札を納めにいくので通してください、といい通してもらうのですが、その時門番に「行きは良いですが、帰りは危ないですよ。」と注意されるのです。

この頃、子供は7歳(大人)になるまで身売りや生贄などで、神隠しに合うこともしょっちゅうでした。

(身売りなんてまさに売奴と共通してるんですよね。)

知らない細道だったはずなのにお札を渡すなんて不自然です。聞かれた門番もそう思ったはず。そこで門番は天神様に子供を生贄にしに行くつもりだろうと薄々感づいてこそ、「帰りは危ない」と止めるよう促したんだと思います。それでも行ったのですが。つまり、この子供は7歳に満ちていない可能性が高いです。

これのなにが関係するのかというと、売奴の一番最後、"後ろの少年 だあれ?"です。この子供が阿修羅の少女だとし、連れを守銭奴だとすると、どうでしょう。後ろの少年は天神様だと思いませんか?すでに窒息沈殿が3度起きている=3人阿修羅の少女を殺しているので次のお金稼ぎのための場所を探していて、天神様の居処を使用しようとしたのだとすれば、この仮説は通ります。

 

頭の先かられいざ〜びいむ出したりおてての中からだいだらぼっち出てきたりしてるのはさすがによくわからないんですが、多分これは遊びだと思いますよ。「通りゃんせ」が通りゃんせの歌を暗示していると読んでいますが、このとき通りゃんせは強調するために何度も言われていると思えますが、だいだらぼっちがすでに仏教と関係ないので、これはなにか遊んでいる状況を写していて、それを通りゃんせ通りゃんせ でおてての中から…と言おうとしたら後ろに少年がいることに気づいたのではないかと思います。

 

感想

わたしは れいざ〜びいむ の語感が大好きです。何ですかこの文字列可愛すぎる。自分が今回歌を読もうとした理由の9割がこの文字列ですからね。

さて、最後の部分ですが、自分が守銭奴と合わせて読むのではなくて他の人と合わせて読めば後ろの少年は子供が7歳になるまで守ってくれている少年、と読めるのですが、私は守銭奴を許せない神様にしか思えなかったのでそう読みました。

調べてみればわかるんですけど、通りゃんせの考察は意外に数多く存在しましたよ。この曲は巫泥さんの曲×仏教×童謡なので読む人によって意味の解釈が多岐に分かれそうだと思います。

 

以上です。

 

 

シロの曲考察-破落戸(巫泥)

シロです。破落戸のoff vocalが解禁されたので考察したものをここに記します。

 

まず、タグに#全夏中大祭2020とあるので、これは夏曲です。夏らしい言葉として火という部分に着目してみました。…少し無理やりですが。

まず、"其れに火を点けようぜ"にて一つ、火が登場。

つぎに、"自棄に知りたがる"にて一つ。やけに、とは本来この漢字で書かれません。しかし、自棄から来ています。また、自棄は焼けと同語源であり、火を意識させているように思います。

そして、"中指を立て"るという行為。これは炎上行為で、これもまた火に関しているかと思います。

以上のことから、火がこの曲の夏要素だと思います。考察には一切関係しません。

 

 

つぎに、歌詞を一部ずつ順番に見ていきます。

 

"正直者なら 馬鹿を見るけれど

馬鹿でもいいから 正直でいたい"

2度目の"馬鹿"は見ることについては言及していません。この2度目を「無意味なこと」という意味で読むと、

悪賢い者は得をして、正直者は帰って酷い間に合うけど、そんな無意味でも正直でいたい

と、読めます。

 

"不器用な身体 零か百じゃなきゃ 保てないならば

其れに火を 点けようぜ"

零か百は「全く無いか、たくさんあるか」と読み取りました。

火とは、激しい怒りでしょう。

保てないものは流れからして正直さだと推測できます。よって、

(得が)全く無いか、沢山あるかでないと正直であり続けられないならば激しく怒ろうぜ

と、読めます。

 

"無関係な奴が 自棄に知りたがる 胡桃の在処と

悪戯の理由 

保身と云う名の 醜い争い 恩と仇ならば 

紙一重だったからさ"

胡桃は、9月下旬〜10月上旬なので夏にはありません。また、胡桃の花言葉は「知性」です。無関係な奴はその在処を知りたがっているので、聞かれている側は胡桃を持っていません。胡桃がない=知性がない=馬鹿ということだと思います。

胡桃の在処に対しては保身と云う名の〜、悪戯の理由に対しては恩と仇ならば〜、と返しています。

云うは引用する形で使われる言うです。

紙一重は極めて僅かな違いです。

悪戯は普通正直ならしないことですが、紙一重という言葉で片付けています。これを読むと、

無関係な奴はやたらと知性がないと言い、悪戯の理由を聞きたがる。知性がないと貶すのは自分の立場を守るためだし、それを保身という言葉を引用して醜く争っている。正直でいたいのに悪戯をした理由を聞かれるが、恩と仇は極めて僅かに違うだけだからだ。

と、読めます。

 

"後先考えずに 食べて動けない バン バ バン バン"

食べるとは恩を受けるということでしょう。後先考えないというのは動けなくなることを考えないということで、動けなくなっています。恩を貰うだけだったので自分で動けなくなるのです。悪戯の理由の続きに感じられます。

後先考えず恩だけ受けても動かなくなるのだから仇も仕方なかった。

と読めますね。

 

"言葉巧みに誤魔化し 口車なんて 屁の童"

口車は口先だけの巧みな言い回しという意味で、言葉巧みを言い換えていると思います。言葉巧みは騙すという意味を含んでいて、誤魔化すも欺いて不正するという意味です。屁の童は簡単にやってのけるということです。

言葉を駆使して騙して不正をするくらい簡単だ。

と、読めます。

恩と仇が紙一重だ、あたりは言葉巧みに誤魔化していたので、この曲は自分が正直者でいたいと言っているのではなく、正直でいたいと言っている人に対して喧嘩を売っているように思えます。

 

"HA  高高9mm 鉄 の塊が 生を 終え るだけ の鋭さ

ばかり 「破落戸」 ばっかの世で 転がる不平

それならば 僕は 中指を 立てようか"

鉄の塊は銃弾でしょう。9mm弾は世界で最も普及している弾丸ですが、一般的に9mmパラメラム弾のことを指します。パラメラムはラテン語で「平和を望むなら戦いに備えよ」という意味を持ちます。

"だけ""ばかり""ばっか"は同じ意味です。

破落戸はわるものの意味です。正直とは相反します。

中指を立てる行為は、喧嘩を挑むということです。

ここから、

せいぜい9mmの弾丸は一つの命が終わる程度の鋭さだけだ。悪者しかいない世界で不満が全く珍しくもなく存在しているが、それなら僕は喧嘩を売る。

と、読めます。

この喧嘩を売っている先は正直でいたいと言っている人でしょう。パラメラムの意味から、平和を望んでいるからこそ喧嘩腰なのだと思います。弾丸に対してだけと言っているあたり本気の喧嘩ですね。

 

"正直者なら 馬鹿を見るけれど 馬鹿でもいいから

正直でいたい 馬鹿と鋏なら 使い様だけど

どちらが鋏か 試してはみたい"

馬鹿と鋏の馬鹿は、馬鹿でもいいからと言っている人でしょう。この時の鋏は立てた二本指を鋏に見立てていると思います。他に思い当たる節がありません。また、どちらが鋏かの鋏は凶器に近い意味合いだと思います。

正直でいたいと言う人も立てた中指も使い様だが、どちらの方が凶暴なのかは試してみたい。

と、読めます。

 

"高高弌秒 声 帯の動き 生 を 終え るだけ の

罪滅ぼし か 「破落戸」 ばっかの世で

群がるだけ それならば 僕は 中指を 立てようか"

生を終えるとあるので弌秒の声帯の動きは遺言でしょうか。パラメラムから、戦いで平和へと進展したのでしょう。罪滅ぼしは謝罪の言葉とかでしょう。

すると、

せいぜい弌秒罪滅ぼしの遺言を吐くだけか。悪者しかいない世界でただ集まってるだけなら喧嘩を売ってやる。

と、読めます。

 

"HA 高高三六五日 が 生 を 終え るなら

馬鹿馬鹿しいよな 「破落戸」 だったさ

鋏は正直 相変わらず 僕は 中指を 立てようか"

三六五日が生を終えるというのは一年が経つことではないでしょうか。

この破落戸について考えてみます。

後ろにある"鋏は正直"と並んでいるので、鋏は正直だがもう一つは破落戸だったと考えます。歌詞に"馬鹿と鋏なら"とあるので、破落戸だったのは馬鹿の方でしょう。

せいぜい一年が経ったくらい下らない。正直でいたいと言う人も元は悪者だったはずだ。私は相変わらず喧嘩を売るぞ。

と、読めます。1年間喧嘩を売り続けてもまだ足りないのですね。

 

"中指を立てようか それならば 僕は 中指を 立てようか"

(略)

 

 

感想

破落戸について考察しました。破落戸って他人の意見聞く限りでは正直者が指を立てているイメージだったんですけど、自分で考察してみると真逆になってしまいました。少し無理やりな解釈があった気もしますが、私は正直でいたいと言っている人に喧嘩を売る曲だと考察しました。

自分の中で勝手に誤字だろうと判断したんですけど、動画では、試しては"見"たい・三"五六"日、とあったのでそこがわざとだったりするのかなぁ、とひとつ。

以上です。

シロの曲考察-本東(巫泥)

シロです。巫泥さんの曲「本東」(ホントン)を考察したのでここに記します。

 

 

本東の歌詞

 

損か得か忖度か何て 己が決めんぞわーいわい

ヒステリックで未亡人 マグマグラマー

そんなもんじゃ無いわ

 

ハイド 喪家

廃墟 売国奴

マサカー摂取中の蔓延 マサチューセッツ州を繁栄

 

スッタカラッターパカラッパー×3

売ったかやっぱ馬鹿だった

 

般若派羅蜜多本東

快感だったら何でも良いか

スッタカラッターパカラッパー

頭がおかしくなあれ

 

チンプイプイか アブラカタブラか

イナイイナイバアか 簡単

ヒステリックで未亡人 マサカソンナー

そんなもんじゃ無いわ

 

愛と平和 賽は振られた

顔がいつも 笑っている様だが

まるで骸骨みたいだ

 

般若派羅蜜多本東

快感だったら何でも良いか

スッタカラッターパカラッパー

うっさい黙っとれよ河童

簡単だった つまんなかったか

腐った酸化 疑わなかったか

スッタカラッターパカラッパー

頭がおかしくなあれ

 

般若派羅蜜多本東

快感だったら何でも良いか

スッタカラッターパカラッパー

うっさい黙っとれよ河童

簡単だった つまんなかったか

腐った酸化 疑わなかったか

スッタカラッターパカラッパー

頭がおかしくなあれ

 

 

曲考察

先ず前提として、この曲は架空都市「本東」の紹介と考えて考察します。

 

"損か得か忖度か何て 己が決めんぞわーいわい"

よく見るとこの"得"という字は二つの意味を持ちます。

一つ目は損と対立して並んでいる、利益を得る事という意味。

損は利益を失う事、得は利益を得る事、忖度は他人の気持ちを推し量る事で、どれを選ぶかは自分が決めると言っていると読めます。

そして二つ目は仏語で、浄土に往生し、涅槃の結果を得る事。涅槃とは、悟りの境地であり、円満・安楽のただあり、仏教の理想とするものです。

何故仏語で読めるのかは二つの歌詞からわかります

一つ目は"般若派羅本東"。仏教の一つとして般若派羅蜜多心経があり、非常に酷似していることから、この曲が仏教に関していることがわかります。

二つ目は"愛と平和"。これは2番に出てきますが、"損か得"と同じように、関連した言葉です。そして、このうち"愛"は仏語で解脱(縛るものを離れて自由になる事)を妨げるものです。

損は報われない事、得は涅槃の結果を得る事、忖度は他人を配慮することで、教えがあっても自分がどれをするかは自分が決めるんだという意志が読めます。このとき、わーいわいは教えからの解放感とも感じられます。

 

"ヒステリックで未亡人 マグマグラマー そんなもんじゃ無いわ"

ヒステリックとは感情を統御できていない状態です。

マグマグラマーという言葉は存在しませんが、マグマは積もり積もった不平不満、グラマーは文法という意味です。そのため、マグマグラマーは「不平不満を言う」という意味だと思います。

すると、激しい怒りで夫を死なせたわけでも不平不満を言いたいわけでもない!と読めますね。どうやら主人公の周りでは感情的な印象があるようです。

 

"ハイド 喪家 廃墟 売国奴" "売ったかやっぱ馬鹿だった"

これは他人について言っているようです。

ハイドとは狩猟の時の隠れ場

喪家とは不幸のあった家

廃墟とは建物が荒れ果てた跡

売国奴とは私利のために敵国に自国の不利になることをする者

国を売った人の隠れ家が荒れ果て、既にその家族が不幸にあっている様子が確認でき、この売国奴に対して"売ったかやっぱ馬鹿だった"と言っています。

馬鹿とは、利口でない事という意味で使われていますが、同時につまらない事という意味で使われています。また、つまらないとは"価値が無い"という意味で、これは般若派羅蜜多心経で取り扱われている空性について言及してるように見えます。主人公は仏教の考えを持っているようですね。

 

"マサカー摂取中の蔓延 マサチューセッツ州を繁栄"

マサカーとは、大虐殺という意味です。

これに関連してマサチューセッツ州(当時はマサチューセッツ湾直轄植民地)ではボストン事件という虐殺事件が発生しており、これは反イギリスのプロパガンダとして"摂取"され広げられ(="蔓延"させられ)ました。これによりアメリカ独立戦争が起き、マサチューセッツ州として繁栄しました。

これは、本東の歴史を例えているように思えます。

すると、本東は仏教の植民地にされたものと考えられます(この時の本東を元本東とする)。

摂取は仏語で、仏の慈悲の光が苦しんでいる人々を救いとる事です。

元本東では摂取が行われている最中に、虐殺が蔓延したのではないでしょうか。(苦しんでいない人々は救われないため、互いに殺し合って苦しみあったのか、救われている人々を羨んだ苦しんでいない人々が救われている人々を虐殺したかは不明。)そして、これによって独立戦争が起こり、本東も同じように成立したのではないでしょうか。

 

"般若派羅蜜多本東 快感だったら何でも良いか スッタカラッターパカラッパー 頭がおかしくなあれ"

サビに"般若派羅蜜多本東"があることから、強調していることは間違いないです。

"快感だったら何でも良いか"は先程読んだ歴史を踏まえると、宗教に縋って苦しい思いをするより心地良い方がいいという思いが感じられます。

すると、"頭がおかしくなあれ"は仏教の信仰が普通の人からしておかしくなるので、仏教を信仰するな、と読めます。主人公は確かに仏教を信仰していましたが、反仏教的になった様ですね。

 

"チチンプイプイか アブラカタブラか イナイイナイバアか 簡単"

一つ目は怪我をした子供を「宥める」まじない

二つ目はお守りに刻印すると「治癒力」を持つと信じられた呪文

三つ目は幼児を「あやす」言葉

どれも不思議な力を持つかの様な言葉で、そして言葉を使用すると効果を発揮するので、"簡単"だと言われています。この"簡単"は仏教と比較しているように見られます。

 

"ヒステリックで未亡人 マサカソンナー そんなもんじゃ無いわ"

マサカソンナーという言葉もソンナーも存在しないため、「まさかそんな」を片言で言っているとしか思えません。つまり、心当たりがあるのです。心当たりがある上でそんなもんじゃ無いと言っているので、そんな程度じゃないほど感情が昂っていると言いたいのでしょうか。前回そんなもんじゃ無いと否定した時との間で歴史について語っている様に読みましたが、これによって感情が昂るという心境の変化が感じられます。

 

"愛と平和 賽は振られた"

愛と平和の並びは"損か得か"で扱った通りです。

まず、愛の一つ目の意味として、幸せを願うという意味があります。

幸せを願い心配や揉め事もない穏やかな日々を過ごすため、もう最後までやるしかない。と読めます。

二つ目の意味として、解脱を妨げるものとして紹介しました。

解脱を行うことによって涅槃、つまり仏教の理想へ辿りつけます。それを妨げるものでも、穏やかな日々がともにあれば良い。もう戻れない。と読めます。

 

"顔がいつも 笑ってる様だが まるで骸骨みたいだ"

これは仏教の理想へ辿り着いた信仰者に言っている様ですね。笑っているのは円満や安楽からでしょうか。"まるで骸骨みたい"な笑みであると皮肉を言っていますね。相手は縛られるものが全くなくなり、自由すぎるが故に、笑えていないことが目に見える程に楽しく無くなってしまったのでしょうか。

 

"般若派羅蜜多本東 快感だったら何でも良いか スッタカラッターパカラッパー"

(略)

 

"うっさい黙っとれよ河童"

河童は想像上の生物です。本東に住んでいるのでしょうか。河童は「人を引き込む」ことから呼び込み等の意味も持つらしいのですが、もしかしたら「仏教へ人を引き込もうとする人」に対して煩いから黙れと言っているのでしょう。

 

"簡単だった つまんなかったか 腐った酸化 疑わなかったか"

これは仏教の信仰者に向けて言ってますね。

"簡単だった"は三つの言葉と一度比較して仏教より言葉の方が簡単だったと言っているので皮肉ですね。

"つまんなかったか"は般若派羅蜜多心経の空性を本当に信じているのかを聞いていますね。ここで"売ったかやっぱ馬鹿だった"で空性について言及していたのを振り返ると、売国奴の私利は解脱=自国から解放されることで、売国奴は空性(=馬鹿)のままで仏教を信じても意味がないじゃないかという皮肉の様に感じられます。

"腐った酸化 疑わなかったか"は悪い結果を不安に思わなかったのか?とあの本東ができる歴史の中で仏教の欠点に気づいたはずの信仰者に訴えている様に見えます。

 

"スッタカラッターパカラッパー 頭がおかしくなあれ"

ここでもやはり「頭がおかしくなれ」=仏教を信じるなと言っているあたり仏教から引き込もうとしているようです。

 

"般若派羅蜜多本東 快感だったら何でも良いか スッタカラッターパカラッパー うっさい黙っとれよ河童 簡単だった つまんなかったか 腐った酸化 疑わなかったか スッタカラッターパカラッパー 頭がおかしく なあれ"

(略)

 

 

概要欄

概要欄にて、「本東へようこそ」と言っていて、尚且つ日本語で構成された曲であることから、この数度にわたる"頭がおかしくなあれ"は我々日本人にも言っているようです。

また、スッタカラッターパカラッパーが何度も繰り返される事、チチンプイプイなどが簡単だと評されていた事から考察するに、スッタカラッターパカラッパーはまじないの言葉なのではないでしょうか。そして、そのまじないを使う宗教に我々もまた、招待されている、そう感じられます。

 

 

結論

どうやら本東では仏教が教えられていたのではないでしょうか。そしてこの主人公はそれに反抗しようとしている、そんな様を感じられます。

また、賽は振られたと言っていることから新たな宗教を作り出したのも主人公ではないでしょうか。そして「本東へようこそ。」と言いながら我々に宗教へと勧誘しようとしている。

 

 

感想

ここからは私の感想になりますが、まず、歌詞選びがすごいですね。私がどこまで読み違えているかはわかりませんが……少なくとも私は調べてみるまで般若派羅蜜多心経なんてものは知りませんでした。巫泥さんは知識が深いですね。

今回扱った「本東」。聞いてしまったからには、私も、貴方も、「スッタカラッターパカラッパー」と、何度も歌い上げましょう!

 

以上です。