シロの考察所

シロが勝手に考察します

シロの曲考察-低血ボルト(ずっと真夜中でいいのに。)

シロです。

 

"弱気になる最寄りの雨

日々飛び散る血を滲ませてく

権利を武器に変えて争うほど

心を失うこと受け入れる"

→雨は飛び散る血のことでしょう。他に液体がありません。滲んでいるので、無駄になっています。"最寄りの"から身近さを感じるので、味方がいたのでしょう。その雨は弱気になっているので、その味方は疲弊しています。権利は意見を通す権利だと考えると、争いは論争だと思います。心を失う、これは批判を受けて精神状態が不安定になることでしょう。

そんな状態も受け入れています。

 

"覚悟なら 自然に 誰かの為に引き換えに手放せば

今自分が 生きてゆく意味になれてゆくの"

→覚悟なら自然に持っているのは先ほどの文からわかります。それを批判する誰かの為に引き換えに手放せば確かに、批判している側の味方に回るので、自身が誰かの為に生きていることになるでしょう。ただし、これは争いに負けることを意味します。

ちなみにですが、この歌で一人称が自分になるのはここだけ、他は全て一人称が僕です。ここは挫折しかけている、そんなシーンですが、一人称が僕になる時は挫折しかけていない、批判に立ち向かっている、そんなシーンです。

 

"怖がることはもういーかい 惑わされてくなら

頭でっ価値 ずっとうんと砕いてもっと

乱してあげて 脳みそ達止められない

操れない僕に 期待したいんだ 切り刻まれ

この皮膚に従うほど 無敵になれた"

→怖がることは間違いなく批判に対してでしょう。

もういーかい?から二人いるように思いますが、これは"一人称が自分"に"一人称が僕"が聞いています。間違いなく同一人物ですが、ここからは"一人称が僕"の歌になっていきます。

"惑わされてくなら"は批判に折れるか、折れずに立ち向かうかの2択で判断に苦しんでいることを言っているでしょう。

頭でっかちの意味は知識や理論が先走って行動が伴わないことです。これに含まれている形で存在する価値をうんと砕いて、もっと乱してあげるんですね。あげての て は並列の意味で読みました。

"脳みそ達止められない操れない僕に期待したい"から、"一人称が自分"は脳みそ達に止められる・操られるのだと読め、そちらではなく"一人称が僕"に期待したいのだとわかります。そして、肉体を外側から覆う皮膚、つまり内部の脳みそから一番遠いものにこそ僕に近いものを表現されていて、それに従う=身を任せるほど、無敵に感じられた、つまり批判を気にしなくなれたんですね。

砕くことは細かくすることですが、それに対して切り刻むことは細かく切ることなので、かなり似通ったイメージを感じます。砕くのはあたまでっ価値な相手の価値なのですが、切り刻まれるのはこちら側の、特に行動が伴っていない"一人称自分"の価値でしょう。

先ほどから価値を細かくすると表現していますが、細かくするというのは具体的にするということだと思います。これは意味をとったというよりは流れから読んだ、と言った感じですが。

 

"時が経てば 自然に 忘れゆく悲しみをいつまでも

思い返して 背負うことで戦えるの"

→時間が経てば自然に忘れてゆくような悲しみはまさに一番最初の部分、日々飛び散る血を滲ませていたあの頃でしょう。

それをいつまでも思い返す、つまり、あの無駄になりかけた滲んだ血を思い出す形で背負い、そして争いに戻るのです。一人だったら折れていたということ。

 

"たとえ否定しかしない誰かを

正義まで押し付ける客観を

見逃しは出来ないけど

響かないから 同調したって中身なくて

正しさが正しくなれないほど

簡単に僕らを表せないように お口直しを"

→否定しかしない誰かや正義まで押し付ける客観を見逃すことはできず、けれどもその人達に響かせるようなこともできない。たとえそうだからと同調しても、正しさが正しくなれないくらい、簡単に僕らを表せないように、同調に中身はない。だから気分を変えよう。

少し文の流れを変え、少し言葉を付け足したりしてみました。批判する人を見逃す気がない"一人称が僕"ですが、対処方法も見つかってないみたいです。ただ同調をしたとしても、そこに中身がないことだけははっきりとわかっています。同調の言葉が出てきた時点で一度同調視点、"一人称が自分"視点に切り替わりかけましたが、否定をしています。この同調視点に変わりかけたことこそが次のサビの怖がることですね。

 

"怖がることはもういーかい 惑わされてくなら

頭でっ価値 ずっとうんと砕いてもっと

乱してあげて 脳みそ達止められない

操れない僕に 期待したいんだ 切り刻まれ

この皮膚に従うほど 無敵になれた"

(特に書くことがないので省略します)

 

"こわいよ 何も感じない 苦しみを 探し求め

我に帰ってく ひたすら 噛み締めた 恨みは

くだらんか? ううん"

→"こわいよ〜我に帰ってく""ひたすら〜くだらんか?""ううん"で応答してるように感じられます。

なんとなく語調が変わっていますよね。

"一人称が自分"→"一人称が僕"→"一人称が自分"の順に見えます。

何も感じない苦しみを探し求めているので、今回怖いのは何も感じないことに苦しみを「覚えていない」ことでしょう。

我に帰るについては、我に返るが本心に帰ることですが、帰るが元いた場所に帰ることなので、"一人称が自分"が本心に戻ってくることによって"覚悟を手放そうとしている頃の自分"に帰ってきたんですね。

そして"一人称が僕"側が聞きます。ひたすら(僕が)噛み締めた恨み(思い返して背負った悲しみ)はくだらないか?と。

そして返事がううん。という否定。

 

"助かれ…"

これは自分がでしょう。さっきの返事の続きとして助かれ、と言ってるように思えます。

 

"怖がることを金輪際 迷いに負けるなら

頭でっか血 ずっとうんと砕いてもっと

乱してあげて 奇想天外止められない

操れない僕に 期待したいんだ 切り刻まれ

この皮膚に従うほど 無敵になれた"

怖がることの対象はないです。怖がることそのものに対して、金輪際(しない)と言っています。

迷いは批判に折れるか、立ち向かうか。

それに負ける=批判に折れるなら頭でっか血だ。と言っています。これは血を含んでいて、飛び散っていません。他の味方は飛び散ったのに?そういう折れる判断への皮肉を感じます。

ずっとうんと砕いてもっとは相手のことでしょう。これは相手の価値で変わらないかと。

そして"一人称が自分"も助かれ、などと賛成していたので、脳みそも信頼できるようになりました。なので、"僕"の表現方法が脳みそ達が止められないのではなく、"僕自身が奇想天外で他の誰にも止められないし操れない"に変わったのです。

そして最後は無敵でfin.

 

考察自体は以上です。

一通り読みましたが、葛藤の歌のように感じましたね。

こんな有名どころの歌を読んだのはじめてだ…

感想としては、かなり文が難しかったと思います。

読むのに一苦労。

読んだ理由は二つあって、一つはこの曲が好きだから。特に始まるところかなり好きです。

もう一つは、他の人の考察を見ながら自分の考察の仕方と他の人の仕方、また自分の考察の書き方と他の人の書き方を比べたかったからです。

歌の解釈は人それぞれですが、誤った解釈をしている場合でも、読み方自体は正しいな、と思った時、まさにそれは奇想天外の一言を作るときに使える知識でしょう。その読み方を利用して一つ何かを書いてみても良いのかも。と考えるとやはり、どんな誤った読み方でも、否定するわけにはいきませんよね。ていうかもっといろんな人に書いて欲しいと思います。比較するのが楽しいでしょうので。

それでは。